「罪びとを招く方」 03−01−05
ルカ 5:27〜32
主イエスが声をかけられたのは、徴税人のレビという男でした。
それは、意外なことでした。徴税人は、税金を集める仕事ですが、
正当な集金をするだけでなく、権力を笠に着て取りたいだけ税金を
取るといった悪どい事もしていたようです。ですから、嫌われ、
困った存在とみなされました。しかも、収税所にいた時に声を
お掛けになったというのです。神を求めていた時ではなく、周りから
「困ったやつだ」と言われることをしている真っ最中であったのです。
この場面では、主イエスの懐(ふところ)の深さに出会います。
みんなから好かれる良い人にだけ、声をかける方ではありません。
不正をしているような罪人には近づきたくないと考える私たちとは、
ずいぶん違います。主は、徴税人に歩みより、呼びかける意外さを
お持ちなのです。しかしながら、それだからこそ、罪を抱えている
私達のところにも、歩み寄ってくださるのです。
なぜ、主は罪人と言われる人のところに歩みより、声をおかけに
なるのでしょうか。嫌われる人がかわいそうだ、といった同情で、
そうされるのではありません。罪人が好きだからという訳でも勿論
ありません。それは、主が罪を解決することのできるお方であるから
です。医者が病人を治すように、主は罪を解決し、取り除くことが
おできになる。だからこそ、歩み寄られるのです。
それゆえ、私たちの所にも歩み寄ってくださったのです。
私達は、主がいつも側にいてくださるというだけでもとてもうれしく
感じますが、主は病人をお見舞いする友のように、ただ側(そば)に
おられるだけではないのです。実は、医者のように、罪を解決する
お方として側にいてくださる。罪を取り除くためにこそ、私たちに
歩みより、呼びかけて、側に立ってくださるのです。
だから、私たちはうれしいのです。罪を癒してくださる方が
おられるゆえに、自らの罪や愚かさを痛感する時も、なお慰め
られるのです。罪を赦された者として生かすために、主が傍
(かたわ)らにいてくださいます。